アイデアのスープのレシピ

ナショナルデパートが作られる現場のレシピ

「異物」と「偉物」

大概は近似の方向性に向かって収束するのが社会というか、なんだろう商売するなら客の足元を見るような感じでね、「みんなこんな感じのものが欲しいんでしょ?」的な感じで需要を見定めて、「この程度のものをこのコストでやれば喜ぶでしょ」っていうのが供給みたいなね。メインストリームにどこかしら足を突っ込む感じで流れていくのがこの世の常みたいな感じで。でも、まあそりゃあ世の中になかなか馴染めない人もあるでしょう。みんながみんな同じ方向を向いているわけではないからね。そういうのを「異物」として感じるのがこの社会なんだと思う。

都市の面白さは馬鹿の数に比例する

前にもブログで書いたけど、馬鹿っていうのは世の中が前に進むための犠牲というかね、炭坑のカナリアみたいなもので、社会の行く末や物事の正否を見極める試金石みたいな存在なんだと思う。常識では計れない意味不明なことをやったり突っ走ったりする奴が、他と違う「異物」として忌み嫌われたり避けられたりするのは、そういうフロンティアな無法者の宿命みたいなものなんだよね。ただ最近は「異物」に対してどこかしら期待している空気感があるような気がしている。ナショナルデパートにしたって、昔と今では風当たりも相当違ってきている。異物感を感じながらも心のどこかで何かを期待しているって言うのが近い表現なのかな。

「異物」な人は周囲の人の求めている事なんか気にしてない。ただ「これやったらヤバくね?」とかそういう発想を根拠に身銭を突っ込んで勝負したり、「こういうのは絶対に必要なんだよ!」っていう根拠の無いビジョンを形にするために心血を注いでしまうタイプだったりする。こういう人の事を人は「馬鹿」と呼ぶんだけど。

自分たちは仕事をし家庭を持つことで充足しているが、社会に対して何らかのアクションを起こしたり希望を夢見るという事に対しても諦めていない。という立場であれば、その個々人の夢を投影できる対象が現れればそこに何かを期待するのは自然な流れなのではないかな。思いの強さやパワーだけは人一倍あるんだけど、社会的立場が弱いとかそういう理由でなかなか壮大な夢が実現しない人に対して、どうにかして力になりたいと思うのは決して不自然な事ではない。それによって自分の日常では参加できないスペシャルな何かを追体験できる期待もあるしね。

「どこか気になる存在」や「ザラッとした異物感」は最初は嫌悪感を伴うんだけど、それに触れて心がザワザワと波打ち始めたら、気になってしょうがない感じになる事が多い。それって嫌悪を保とうとする心さえ解放すれば「期待」に変わるんだと思うんだけど、どうかな。

「異物」が「偉物」になるかもしれないっていう社会のオーダーはあると僕は感じている。

偉人はお行儀の良い人がなるものだという今までの概念も、これから変わっていくだろうと感じている。僕の周囲の30代の仲間は社会的な地位を得るとか金銭的な成功に最終目的を定めていない人も少なからずいる。お金を稼いでからやりたい事をやるという正しい考え方も多いけど、そんなの関係ねえぜ!って最初からやりたい事だけをやるという無法者もそこそこ現れても良いんじゃないかな。やりたい事は今すぐやる。失敗しても俺しかできない事をやる。っていうのは、もしかしたら選ばれた人にしか許されない「馬鹿」な行為なんだと思う。

そういう選ばれし「馬鹿」が社会の中で「異物」として扱われ、周囲の目を気にする事無く思いを遂げていく過程で、ザラッとした存在感がやがて周囲からのリスペクトにつながっていく。そして多くの人の心の中で託された夢や希望を、持ち前の馬鹿げた暴走力で次々と実現していく「異物」の姿を見て、やがては「偉人物」として評価されていくのではないか。これが新しい社会のオーダーになっていけば、これほど楽しい世の中は無いよねって、僕はそう思っている。

「異物」も大事を成し遂げれば「偉人」となれる世の中を夢見て。

つい先日の岡山市議会議員選挙で日本初のDJ議員が誕生した。彼もまたそういう「異物」の一人だったような気がする。見えない何かに向かって共に戦う戦友であり、10年前の同時期に岡山でカフェを開業した仲間であり、先日の統一地方選挙で見事に岡山市議会議員に当選された森山幸治氏に、このエントリーの文章を捧げたい。

おめでとう。