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アイデアのスープのレシピ

ナショナルデパートが作られる現場のレシピ

すべては「創る」「真似る」「選ぶ」で語れる。

ここ最近も嬉しい事と嫌なことが交互にいろいろあるわけですが、いい人に出逢えば、悪い人にも出会う。そういう事が繰り返されて人を見極める力というのは育まれるのかなあなんて思ったりします。まあ、不愉快な人には接しないのが一番なんですけどね。

さて、そんな感じでいろんな人を見てきた中で、ああ、これって真理に近いんじゃないかということに気づいた事があって、それは過去にもぼんやりと頭のなかにイメージとして浮かんだことはあっても、人に言葉で説明することが出来ずにきたのですが、きのう深夜に作業をしている途中で明確な言葉となって頭のなかに現れたので、ちょっと書きます。仕事してくださいよ~とお嘆きの関係者各位には申し訳ないですが。

僕の半径700kmの範囲にいる経営者の知り合いとかを見ていると、上手くいっている人と、上手く行っていない人、これから上手くいくんだろうなあと思わせる人と、これから落ちていくんだろうなあと思わせる人が様々いて、僕がフリーランスから数えると15年ぐらいは仕事をしてきた中で、そういう栄枯盛衰のパターンが見えてきました。

まず、これは経営者に限ったことではないのですが、社会的において個人がどのようなユーティリティーとして機能しているのかというのを三つのカテゴリに大別してみました。これが全てに当てはまるわけではないのですが、ああ、納得!と言ってくださる人だけ読んでくださってもいいかもしれません。

タイトルにもあるように、社会のユーティリティーとしてのポジションは、

「創る」

「真似る」

「選ぶ」

と、僕は分けました。乱暴すぎるかもしれませんが、この三つに分けるとなかなかスッキリするのでこうなったのだと思います。「創る」というのは新しく物やサービスを形にする(創造する)ポジション、「真似る」というのは既存の物やサービスを取り入れて新しい物やサービスを提供するポジション、「選ぶ」というのは「創る」や「真似る」の人がつくった物やサービスを仕入れて販売したり、それらを消費して利便性や快適性を享受するポジションです。

「選ぶ」というのは言ってみればセレクトショップ的な機能で、その人の持つ審美眼、センスで物やサービスを選び、キュレーションするという感じですね。「選ぶ」基準は千差万別なので、誰が選ぶかということでも個性が出ます。また、選んだ先にどうインデックスしていくかということでも個性を発揮できます。著名人や身近にいるセンスの良い人や自分と近い価値観を持つ人、誰が選んだかということが価値につながります。SNSなどでもこういう活動は多くされていると思います。

「真似る」というのは大きな括りでは「つくる」になるんだけど、時間と場所による制約を負担することで、ジェネリックやリプロダクトで情報の利ざやを稼ぐと言う感じだと思ってます。物やサービスそのものの価値ではなく、例えば、まだパン屋が一軒もない地域にパン屋を出店して儲けるとか、海外のものを国内に紹介して儲けるとか、そのものの本来の価値をつくり提供することではなく、遠く離れた場所のコンテンツを身近に楽しめるようにしてあげることや、昔はあったけど今は無いものを提供することでサービスとすることだと思ってます。「真似る」は「つくる」の範疇なんだけど、「つくる」ことに重きをおいているのではなく、あくまでも「儲ける」ための手段として「つくる」ということを営む感じでしょうか。

「創る」というのは何か、流れで言うと「真似る」や「選ぶ」の人たちに一次コンテンツを提供する立場だと思います。真似る対象や、選ぶ対象を社会に提供する、情報の第一次産業的な役割を担っているような気がします。「創る」は「真似る」や「選ぶ」と違って、物やサービスなどの流通するものを「創る」のではなく、新しい概念や世界をつくっていると言っていいと思います。その新しい概念や世界観を目に見える消費できる形にしたのが商品やサービスであって、何かの理由、例えば儲けるとか承認欲求を満たすなどの理由のために「つくる」のではなく、単に「創る」という行為が人生のベースにあると言えば分かりやすいでしょうか。

「真似る」人が「創る」をしようとすると必ず失敗します。同じように「選ぶ」人が「創る」をしようとしても必ず失敗します。「真似る」と「選ぶ」の人は、ゼロからつくることが出来ないからです。でもそういうことを言うと「世の中に完全なオリジナルなんてないじゃないか」と言われます。が、そのセリフ自体が「創る」ことが出来ないと自明しているようなものです。「創る」というのは物やサービスとしてのオリジナルをつくるのではなく、新しい概念や世界観をつくっているわけですから、オリジナルという考え方は意味をなしません。

一方で「選ぶ」人が「真似る」の領域に踏み込むのは簡単です。「真似る」ためのマニュファクチュアは外注でカバーすることができるからです。しかし、「真似る」に踏み込んだ「選ぶ」の人は、「真似る」をやっているのにもかかわらず、あたかも自分が「創る」をやっているかのような錯覚に陥り、最後は必ず失敗します。

「真似る」人が「選ぶ」を手がけた場合もあるかもしれません。しかし「真似る」人は他者の創造物に対するリスペクトが薄いので、選ぶ能力が「選ぶ」人より劣ります。「選ぶ」というのは対象をリスペクトするということに他ならないからです。「真似る」というのは情報の中間搾取で利ざやを稼ぐという形態なので、商品やサービスに興味はあれども愛が無い場合が多いようにも見えます。全てに当てはまるわけではありませんが。

で、「創る」の人が「真似る」や「選ぶ」の領域に踏み込んだ場合はどうなるのでしょうか。答えは簡単です。必ず失敗します。なぜなら、「創る」というのは「真似る」や「選ぶ」に必要な能力を全く持っていない人がやっているからです。

ここまで勝手に考えたことを書いてきましたが、ここ20年近く周囲のビジネスの流れを見ていて思うのは、プレーヤーとしてビジネスに関わっている人たちの場合、必ずと言っていいほど「創る」「真似る」「選ぶ」のどれかに当てはまっていて、ある程度の成功を収めると違うカテゴリーに進出したり、手を伸ばそうとします。そしてもれなくその段階から破綻が始まります。

隣の芝が青く見えるのか、はたまた全能感、万能感が脳を駆け巡り、誤った判断を下してしまうのか、真実のプロセスは分かりませんが、やはり社会の中で自分がどのユーティリティとして機能すべきかを逸脱すると、うまくいかない、歯車が狂い始めているような気がします。

このブログでも何回も書いてますが、憧れたら負けです。誰に負けるのかというと、憧れた相手に負けるのではなく、自分の心に負けるんです。社会の中での自分の役割と、自分が憧れる姿、それは必ずしも同一とは限りません。仕事の規模、会社の規模が拡大すると、自我がぶよぶよに膨張し、自制できなくなった人たちを多く見てきました。

おそらく人というのは自我を収める容器だと思います。それ以上でもそれ以下でもない。だから、「創る」「真似る」「選ぶ」のどれが上とかどれが下とかという話ではないんです。社会の中のひとつの貴重なパーツとして機能するには、その役割に徹するのが、人からも喜ばれ、自分の心も喜ぶのだと思ってます。幸いにも僕は自我が膨張するほど儲かった経験が無いために心やすく自分の役割を遂行することができますが、もし、何かのきっかけで自分の心が暴走しそうになった時、この記事を読みたいと思っています。