アイデアのスープのレシピ

ナショナルデパートが作られる現場のレシピ

放っておいても人は寄ってくるし、何もしなくても人は去っていく。

おぼえたフランス語は相変わらずボンジュールとメルシーだけです。

追われている仕事が佳境です。。。

今日、ある友人(僕は勝手に友人・戦友だと思ってる)とお茶をしていまして、いろいろ思い出すことが多く、久々のブログを書いてみようと思います。すぐ終わるので、ちょっとお付き合い。

世の中には生活や仕事の環境がずっと変わらないという人もいると思います。その逆で、環境がめまぐるしく変わる人というのもいると思います。自ら環境を変えようと思わずとも、変えざるを得ないところに追い詰められる人というのもいます。まあ、僕のことですけど。

ずっと同じ人間関係や交友関係が続いていくという人もいるでしょう、その逆で、周囲の人間関係がめまぐるしく変わる人というのもいると思います。自ら人間関係を変えようと思わずとも、変えざるを得ないところに追い詰められる人というのもいます。まあ、僕のことですけど。

進む道の方向によって、自分を取り巻く環境は変化します。環境というのは自分を取り巻く他人のことです。他人自体は変わらないのですが、自分のまわりにどういう人がいるのかという組み合わせが変わっていくことを、環境の変化というのではないかと思います。

仕事の内容が変われば、寄ってくる人の種類も変わります。自分の置かれた立場が変われば、去っていく人の数も増えるかもしれません。騙そうとして近寄る人もいれば、手助けしようとしてくれる人もいます。その周囲を取り巻く他人が複雑に組み合わさって自身の環境というのを形成するわけです。

人脈を作るとか、人間関係を整理するとか、自ら動いて環境を作ろうとする人もいますが、特に何もしなくても自分が動いていれば、放っておいても人は寄ってくるし、何もしなくても人は去っていきます。環境というのは自分を取り巻く人の群れでしかなく、自分が動けば人の輪も同じように動きます。

自分のまわりにどういう人がいるのかということが、自分の人生を左右することも多くあるかも知れないです。でも、それは自分で選ぶのではなく、どちらかというと自分が選ばれているわけです。なので、環境が悪いというのは、同時に自分自身にもなんらかの引き寄せる要素をもっているわけです。

ここ数年の僕なら「岡山」ということにこだわるがあまり、自分と一番相性の悪い保守的な人たちや既得権の上にあぐらをかく人たちとの無意味な接触を招いてしまい、結果として無用なトラブルや無用な消耗をしてしまったわけですね。ワイフはずいぶん前から「岡山を諦めてもいいのではないか」と言っていましたが、男というのは未練がましいものでしてね、振り向いてもらえない相手になかなか諦めがつかないものです。

変わらないことが悪いでもなく、変わることが悪いでもないのですが、すべては自分の心持ちなような気がします。変わって悪いのか、変わって良いのか、とかそういうことでなくて、変わったことを受け入れたり、変わらないことを受け入れることを、自分の中でどう受け入れるかということではないかと。

放っておいても人は寄ってくるし、何もしなくても人は去っていくので、そのつど心を折ったりしていては、時間も心も勿体無い気がします。おそらく人によって抱えられる荷物の数には違いがあり、たくさん抱えられる人は抱えたまま進んでいけばいいし、抱えられないなあと思えば荷物をひとつひとつ下ろしていけばいいと思うんです。抱えられないと分かっていながら抱えないといけないと自分に責を課すと、たぶん心の病気になるのだと思います。

時として抱えないといけない場合もあるし、無理やりに振り切って走りだす必要もあるし、生きるというのは難しいものですね。

ボンジュール。