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アイデアのスープのレシピ

ナショナルデパートが作られる現場のレシピ

「運」のマイレージの交換レート

昨日、友だちと喋りよって、才能と努力というんが出てきて、僕は才能と努力は相互補完的な関係やと思うてて、人間の要素の中では後天的な要素やないかと考えてる。

先天的な要素は家族や血族とか経済的な環境とかそういうんで、そういう生まれ出た時にしょってる自分の力ではどうしようもないもんに縛られたまま、しょうもない一生を送る人もおれば、しょってるもんなんか関係なく、えらい楽しそうな人生を送れる人もおる。

生まれ出た時にしょわされたもんが人生の枠をある程度決める先天的な項目だとして、生きている間に人生の枠の形や大きさを変えるためのツールというんがあるとしたら、それを入手するための通貨やポイントが「運」やないかと思う。

生まれ持って「運」はあるとおもうんやけど、社会性の中で発生するマイレージとしての「運」の方が生涯獲得「運」のグロスのボリュームを決めるんやと思う。

「運」というんは、生きとる間に人と関わることで発生するマイレージのポイントみたいなもんやないかと思うんよね。それをいろんなツールに交換して、自分がこうなりたいとか思う人生にい近づけていくんやないかなあと思う。

例えば仕事をうまくいかす才能というのがあるとすれば、それには自分の「運」を「仕事の才能」というレートで交換、とか、幸せな家庭を継続していく人柄を手に入れるにはこのレートで交換、とか、そういう感じで。

小さな「運」で最大の喜びを手に入れることができる人もおったら、ものすごい大量の「運」を使うてもぜんぜん幸せになれん人もおる。

それは自分の人生に適切なツールを選んでないということやろうし、分不相応なツールを欲しがったり、せっかく貯めた「運」を必要ないツールに交換してしもうて使い方を誤ったり、そもそも使い方を知らんツールの山を目の前にして呆然としたりしてるだけなんやろうなあとか思う。

「運」は生まれ持った分と生きてる間に集まってくる分の二種類があって、大半が生きてる間に貯まるもんやないかと思うてる。

いろんなひとを何年もヲチしてたら、「運」が貯まりやすい人と「運」が貯まりにくい人の違い、ツールの選択がドンピシャに決まる人と、不必要なツールばっかり手に入れて「運」を無駄遣いしてる人の違いいうんが見えてくる。

それは自分にも当てはまることなんやけどね、冷静に考えたら行く道はひとつとは限らんし、途中ですったもんだがあるからこそ面白い事に出会ったりするもんやし、そういう無駄なことが無駄で終わるんか、無駄なことが新たな「運」をチャリンと落とすんか、そういうところまでちゃんと見とかんとイケンような気がする。

「運」を貯める袋のことでも、おちょぼ口の袋には入りにくいし溢れてしまうかも知れんし、口が大きうても底が浅ければ「運」が飛び出して無くしてしまうかも知れん。大きいことを言うても人の底が浅かったら信認は得られんし、ええこと思うとっても、口に出して言わんかったら誰にも思いは届かん。「運」を貯めるんは人そのものやと思うんよ。

交換レートはテクニックみたいなもんなんやろか、それでも、もっと原理原則いうんがあるような気がする。「運」にも種類があるかも知れんし、質量の違いもあるんかもなあ。目に見えんからようは分からんけど、そういうんが薄っすらと感じられるようになったんで、いろいろ思うところがありますわ。

そう思うたら、仕事も家族も普段の自分の人となりなんやろなあと思うわ。