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アイデアのスープのレシピ

ナショナルデパートが作られる現場のレシピ

ものづくりの上で「こうした」と「こうなった」は、まったく違うという話。

アイデアのスープ ハンドメイド ビジネス

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よく、ものを食べたり、ものを買ったりした時に、ワイフは僕の評価を聞きたがる。そういうとき、「これは美味しいね」とか「これは不味いね」とか、「これはいいね」とか「これはよろしくないね」とかいう評価って、まず言わない。

ものを食べた時、これはお店であっても量販店で買ったパッケージものでも同じだけど、「作者が意図した通りに仕上がった」のか、「なんか知らないがこうなってしまった」のか、という視点でしか評価をしていない。

もし僕の口に合わなかった場合でも、「作者が意図した通りに仕上がった」ものであれば、それは僕と作者の趣味嗜好が違っていただけで、それがすなわち「不味い」という結果にはならなくて、単純に「違う」ということだと思っている。

逆に、僕の口に合う合わないにかかわらず、「なんか知らないがこうなってしまった」ものを食べると、作者の実力不足なのかなあ、と思ってしまう。この、「なんか知らないがこうなってしまった」ものというのは、作者の中に自分の作るものの完成イメージがきちんと明確になっていなくて、なんとなくアイデアを形にしてみたものだったり、なんとなく誰かがやっていたことを模倣してみたりという段階だったりする。

 

クリエイティブとオペレーション

なにかしら物を作っていると、自分のイメージと違う仕上がりになってしまうことというのがある。それを修正して自分の思い描く完成イメージに少しでも近づけようとするのが、これがすなわちクリエイティブであって、一方、たとえばプロの作ったものを自分でも作ってみたいという欲求が源泉であったなら、なんかプロとは違うけどこれはこれで良い出来だよね、というのが単なるオペレーション作業とでもいうか、まあアマチュアなのかとは思う。

こういう、ものづくりの上で「こうした」と「こうなった」の違いというのは、水平に並んでいるわけではなくて、「完成度」という垂直の違いなんだけど、それを実感して自分が垂直のライン上のどこに位置しているかというのを客観的に見ることが出来るのが、常に完成度の高いものを生み出す人、と思ってる。

今はネットも発達して、なんでも作り方がすぐに調べられる世の中になったけど、自分にしか出来ない、自分だけが知っている世界を追求してものを作っていくには、そういうオペレーション部分を模倣するだけでは不可能だったりする。

 

自分はこういうものを作りたいんだけど他に誰もまだ作っていないから参考になる情報がない、だったら自分でゼロから作っていこう、という考え方と、たまたま作ってみたら出来たものが周りから高評価だったのでお店を出してみました、とではまるで意味が違ってくる。

ビジネスで言うと、「自分はこれが作りたい、自分が作ったものが売れて評価されたい」というのと、「今はこれが流行ってるからこれを作って売ろう」というのでは、ものを作るというということにも、社会に対するスタンスにおいても全く異なる。

 

昨今の風潮で、プロという価値観に対してそんなにリスペクトを集めない感じもするので、わりと自己満足なことなのかもしれないけど、二十年もいろんな物を作っていると、作られたものが作者が「こうしよう」としてその通りに完成されたものなのか、それとも意図とは反していろんな理由があって「こうなってしまった」ものなのか、そういう違いというのはすぐに分かってしまう。

オペレーションのみで作られたものは「結果」としてのものが存在しているだけで、クリエイティブを通して作られたものは「起因」や「工程」によって思いを具現化したものが生み出されるということなんでしょうか。

ものづくりの上で「こうした」と「こうなった」は、まったく違うと思ってます。まあ、どっちがいいかとか、そういうのは人それぞれだし、売れればいいという価値観もそれは間違っていない。

ただ、作るという行為に対して、どこに目標を置くか、自分をどこまで許さないでいられるか、作るものに対してどこまで自分を律することが出来るか、そうやって人生の時間をオペレーションではなく、クリエイティブに傾ける事ができる人を、僕は心からリスペクトしていたりする。

 

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